中原中也

中原中也
誕生 1907/4/29
山口県山口市吉敷郡下宇野令村
現・山口市湯田温泉
死没 1937/10/22(満30歳没)
神奈川県鎌倉町扇ヶ谷
墓地 山口市吉敷
職業 詩人、歌人、翻訳家
最終学歴 東京外国語学校専修科仏語部修了
ジャンル 詩、短歌、翻訳
主題 喪失感、哀愁、憂鬱
文学活動 ダダイズム、四季派
代表作 『山羊の歌』(1934年)
『在りし日の歌』(1938年)



目次




▼中原中也について

中原中也は日本の詩人、歌人、翻訳家。
旧姓は柏村。夭折したが350篇以上もの詩を残し、一部は中也自身が編纂した詩集『山羊の歌』、『在りし日の歌』に収録されている。
訳詩では『ランボオ詩集』を出版するなど、フランス人作家の翻訳もしていた。


▼作風

中也の詩は、上京後は「朝の歌」に見られるようにランボー、ヴェルレーヌといった象徴派風の詩風だった。
その後宮沢賢治の詩集『春と修羅』に出会い、不思議な宇宙観と口語による響きに魅かれる。1935年賢治の死没一周年に刊行された『宮沢賢治全集』について『作品』1月号に掲載された推薦文では「僕は彼の詩集『春と修羅』を十年愛読している」「此の我々の感性に近いもの、寧ろ民謡でさへある殉情詩が、此の殉情的な国で、今迄読まれなかったなぞといふことは不思議だ」と評価している


▼人柄・性格

『白痴群』時代の服装は、五尺(151.5cm)に満たない体を黒いルパシカ、冬は黒い吊り鐘マントで覆い、頭には「お釜帽子」と呼ばれた黒いソフト帽をかぶっていた。のちに黒い背広に黒いベレー帽、冬は黒い外套に変わったが、黒ずくめの服装は中也のイメージとして定着した。
中学に入ってすぐのころまでは成績優秀で、戦闘的でありながらひょうきんなところがありクラスの人気者だった。
しかし、中学に入ってからは読書にふけり、成績は12番から80番までに下がった。そのせいで小遣いがもらえなくなったが、立ち読みをしたり、図書館を利用するようになった。 2学期は50番まで持ち直したが、2年生では120番まで落ちる。 15歳で飲酒や喫煙を覚えた不良少年となっており、成績はさらに下降した。


▼友人関係

青山二郎は死別した夫人の弟にバー「ウィンゾア」を出店させていた。常連は小林秀雄、井伏鱒二、大岡昇平ら若い文人たちだったが、中也が毎日顔を出し、誰かれかまわず絡んだり喧嘩をふっかけるので、1年でつぶれてしまった。
坂口安吾は「ウィンゾア」で中也と知り合った。中也はお気に入りの女給が安吾と親しいのが気に入らず、いきなり殴りかかったが、大柄な安吾から少し離れたところから拳を振り回しているだけだったので、安吾は大笑いした。
太宰治は同人誌「青い花」を創刊するにあたり、檀一雄や中也を誘った。東中野の居酒屋で飲んでいると中也は「青鯖が空に浮かんだような顔をしやがって」「お前は何の花が好きなんだい」と絡みだし、太宰が泣き出しそうな声で「モ、モ、ノ、ハ、ナ」と答えると、「チエッ、だからおめえは」とこき下ろした。「青い花」は1号で終わり、太宰は「ナメクジみたいにてらてらした奴で、とてもつきあえた代物じゃないよ」と中也を拒絶するようになったが、中也の死に対して太宰は「死んで見ると、やっぱり中原だ、ねえ。段違いだ。立原は死んで天才ということになっているが、君どう思う?皆目つまらねえ」と才能を惜しんでいる。


▼朗読動画

中也の自信作、「サーカス」の朗読動画。


▼中原中也記念館

さまざまなイベントなども催している。最近は漫画「文豪ストレイドッグス」などともコラボしており、若者の入館者数も増えている。

中原中也記念館




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